天上大風の舞台
上越新幹線燕三条駅
北陸道三条燕インター
角田山
多宝山
弥彦山
国上山
西
弥彦山
多宝山
江戸時代から越後の燕は和釘と銅器で全国に知られていました。
江戸時代の通称「振袖火事」の際、江戸復興のためその和釘が峠を越え江戸まで運ばれました。
屏風のように越後平野の海沿いに連なる国上山、弥彦山、多宝山、角田山から採掘された銅と和釘の技術とが出会い、銅器作りが燕で始まりました。
その伝統の鎚起金工技術が現在の金属加工集積地燕の礎となっています。
@ 散る桜、残る桜も、散る桜
太平洋戦争時、若くして散っていった特別攻撃隊員の心境に例えられる句 です。
「今、この世に生を受け存在していることこそ奇跡。真の極楽とは彼岸ではなく、生きている此岸の現世。
あるがまま (ありのまま) の人生全て肯定し、生きている今を喜び、感謝し、大切に」 と、
僧侶良寛は伝えたかったのではないでしょうか。
A うらを見せ、おもてを見せて、散る紅葉
辞世の句と言われていますが、擬人化された力強い能動的な紅葉が印象的で、自らの意志が感じられます。
B天上大風
呼び名は 「てんじょうたいふう」 「てんじょうおおかぜ」 「てんじょうだいふう」 など諸説があり、
凧揚げ遊びの子供にせがまれて書いたものといわれています。
「凧昇れ、、大風つかまえ、天上へ」 カタチある色(しき)の下界と、
永遠なる空(くう)の天上界を凧糸でつなぎ、般若心経を表現したものと思われ、
同義語としては 「あるがまま、ありのまま」 「無作為」 「自ずから」
「Que Sera Sera ケセラセラ」 「Let it be レット・イット・ビー」 と考えられます。
舞台は旧燕市営駐車場前中ノ口川左岸で、蛸の頭のように川が大きく曲がり今も川風が強いところです。( 右の図を参照 )
燕三条駅良寛像
上越新幹線燕三条駅燕側にあります
弥彦山は東京スカイツリーと同じ634Mです。
江戸時代から現在に至る金属加工の町、燕の歴史
ホーム|燕の文化|良寛の天上大風弥彦山からの展望JR燕三条と三条燕IC信号機と街灯田ノ浦浜の夕陽日没後の佐渡能登半島に沈む夕陽越後国古地図
良寛書「天上大風」誕生の燕   良寛の作品から3点をご紹介します
弥彦スカイラインが開通(1970年)される前は、弥彦山山頂と眼下の田ノ浦間の登山道には放置されたままの採掘穴をがありました。
江戸後期に活躍し生誕250年を過ぎた僧侶良寛は、漢詩人・歌人・書家にも通じ数々の作品を残しました。
晩年は燕市の国上山(東京タワーとほぼ同じ高さで313M)中腹にある質素な五合庵(ごごうあん)を拠点に活動しました。
現存しているその書を見ると、数箇所にこぼした墨の跡がありその時の情景が想像されます。
僧侶でありながら酒を好んだ人間良寛は子供達に頼まれ、携帯筆セットの矢立(やたて)から筆をとり快く応じたことでしょう。
中ノ口川左岸の天上大風
3月上旬に行われる神社の吹流し
佐渡
角田山